言葉の無限後退は、言葉が示すものの比較可能性(あるいは交換可能性)と不可分ではないと、ぼくは思う。それは、ぼくが貨幣や身体性にこだわりつづけている理由でもある。結局、ぼくたちが生きている世界では、AとBのどちらが好きかを絶えず選択しつづけなければならない。資本主義というのは、どうしたってそのようなものだ。そして、だから、この体制下の(あるいは戦時下の)言葉も、そのようなものとしてしか意味をもちえない。「好き」という言葉で、相対的ではない「好き」を、絶対的な「好き」を伝えることは、今やとても難しい。無限に繰り返される修飾で、その壁を乗り越えようとしてもよいだろう。いつかは乗り越えられるかもしれない。それはやっぱり、(二重の意味で)パフォーマンスの問題なのだ。