それはとても単純な話だ。可処分所得からさらにいろいろを引き算すると、遊ぶのに使えるお金がいくらか判る。それが十万円で、毎週デートするとしたら、一回のデートはだいたい二万円ってことになる。この論理は、もちろん逆にたどることができて、逆にたどるとシステムのことが理解できてしまう。つまり、すべての快楽が貨幣に換算できる世界で(この世界のことダヨ)、快楽にアクセスするためにはどれだけの収入がなければならないかが判ってしまうわけ。それが判ってしまうことは、もちろん大いなる哀しみではある。ではあるのだが、しかし、俺たちが心から望んだのは哀しいことと哀しむこと、いったいどちらだったのだろう。