我々は《収奪される詩人》である。主体であると同時に、客体であり、そしてやはり主体である。古典的なレトリックのように見えるこの言説は、しかし連環をなさない。《詩人》たることはまずもって主体的に選択され、しかるのちに《収奪》が行われ、しかるのちに正しく《収奪される詩人》たるを選択したのが我々なのである。この言説は、一片のロマンチシズムをも含んでいてはならない。その選択に、順接的あるいは逆接的に選択の余地はなかったことを証明するために、郵便配達夫ならぬ《僕》は二度チャイムを鳴らす。himote.org が明白たらしめんと企んだのは、まさにその言説だったのである。