無意識に郵便配達《夫》なる単語が選択されようはずがない。システムとしての《郵便》がまったく権力的なものとして我々のかたわらにあることを思いおこしてほしい。いかにもチャイムは二度鳴らされる。一度めは悲劇として、二度めは喜劇として。《劇》をもたらすもののとしての《夫》は、machina あるいは machina の一部=螺子として我々の眼前に立ち現れる。擬人化された欲望する資本を構成する主体たる《夫》は、あたかもグノーシス派の蛇のごとく、《夫》未満の身体をはるかに平坦=フラットなる地平におしやることで《郵便》の権力を保存する。だからこそ、蛇の胎から脱出することを《僕》は望むのだ。