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id:flurry 氏の日記を読んで思ったこと。とりあえず並べられた引用に、とりあえず言葉を続けていく。
- http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200311.html#14_2
- http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200311.html#14_4
- http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200311.html#14_3
まずは三つの引用について。
- 自分の欲望を知っている者。
- 自分の欲望を知っているふりをしている者。
- 自分の欲望を知っているふりをしているふりをしている者。
- 無限後退。
あるいは、ぼくは、最初の項に関していくつかの置き換えをするべきかもしれない。たとえば、「{自分/他人}の欲望を{知っている/知らない}者」のように。しかし、とりあえずは、無限後退の言葉遊びの無意味さについて考えてみよう。
無限に抗するに、ぼくたちは数学をしか手段として持ちえなかった。そして、数列とか、収束とか、高校生だったきみたちを苦しめた数学の結論というのは、畢竟、「誰々は、自分の欲望の五〇%について理解しており、残りの五〇%については理解していない」といった言葉でしかなかった。結局、そんな感じの言葉に落ちついてしまうのに、無限に言葉遊びを続けるなんて莫迦みたいじゃん。
- 自分の欲望を知っている者。
- 自分の欲望を知らない者。
- 他人の欲望を知っている者。
- 他人の欲望を知らない者。
ぼくたちが強者であろうとするとき、第一項目と第三項目の比率を上げていこうとするように思う。資本主義システムの内部で、それは権力関係を規定するためのもっとも直截な方法で、だからこそストロングスタイルとなった。
そして、ぼくが件の三個の引用に感じてしまうのは、「自分は自分の欲望を知っているが、他人の欲望については良く知らない」(第一項目かつ第四項目)という雰囲気だ。ぼくをむかむかさせるこの雰囲気は、どのような思想を基礎としているんだろう。まさか、資本から遠く離れたところにたどりつくことができた自分とかそういうウンコをプレゼンテーションしてるんだろうか。