春にミキタ(id:omo)氏にお会いしたとき、酔っぱらったぼくは、クラブの喧騒のなか、「少女になりたかったんです」と叫んだ。叫ばれたほうも困惑しただろうと思う。なにしろ、ほとんど初対面に近かったのだ。

ぼくたちは arai 氏に連れられて出かけた新宿二丁目で、ゲイのお哥さんたちがふりつきでアイドルソングを唄うのを見ていた。あのころと同じく、ぼくはダウンコートを着こんでいて、路上でサバイヴするためのグッズでポケットをいっぱいにしていた。ゲイのお哥さんたちがあんまり楽しそうだったから、ぼくはミキタ氏に叫んだ。「少女になりたかったんです」と。しかし、叫びの理由は本当にそれだったんだろうか。それがこれでなかったとしても、その日、唯一、声をかけようと思った女のコがゴスロリだったのは関係がない。そのコはあやや好きだったが、私はあややについて「松浦亜弥のことである」以外になにも知らなかったので、会話はうまくいかなかった(だから、ピンでナンパ張るのは苦手なんだってば)。

ここまでは昔、どこかに書いた文章のカットアップ。コピー・アンド・ペースト。問題は、結局、ぼくが棚上げしつづけたこれ、について。なぜ棚上げしつづけたか、について。

ひとつには、よろしい、ぼく自身が少女を目指すことによって、少女を目指す女のコと仲良くなれるかもしれないと思わなかったとは言わない。有り体に言って、正直に言って、それは考えた。しかし、ぼくが目的をそう定めたと仮定しても、その戦術の間違いは九〇年代の後半に既に明らかだった。だから、ぼくは実際のところ、その目的のためには別の戦術を取った。その戦術が、少年を目指す、あるいは少年だった男のコというフィクションだったんだけど、それはまた別の話だ。

あるいは、少女が自由そうに見えたから、と言ってしまおうか。しかし、すくなくともぼくに関しては、この説明はなにかを説明したりはしない。説明されるのは、ぼくがなにか棚上げしたいことを抱えていて、それを棚上げしつづけているという事実だけ。じゃあいったい、なぜ、棚上げしつづけなければならなかったんだろう。

それは、そもそもそれ自体、合目的な行動でなかったからだ。あの架空の市場に対して、それは適応的な行動ではなかったからだ。だいたいにおいて、一般的な許容範囲は「部室に置いてあった『ガラスの仮面』くらいしか読んだことないなあ。ぼく、演劇部だったから」だということが実験から判っている。なにかネタをふられて、「『サディスティック・ナインティーン』?」と元ネタを当てたりするべきではない。もちろん「一般」人に対して、だけど。

ぼくはぼくがそうすることが、間尺に合わないことを知っている。だとしたら、どこかで計算が間違っている。その間違いを、ぼくは認めたくないのだ。けれども、あの日、いや、また別のあの日に叫んだ言葉は嘘ではなかった。たぶん、きっと。