消費と所有。

この歳になってさえ、俺は正しい所有のやりくちを学んでいない。このまま、学ばずに死んでいくのだろう。それはそれで、間違っちゃいない死に方だ。けれども、ひとつの疑問がある。誰がかくあることを望んだのか。俺たちが、なかんずく俺が、かくあることを望んだように見えたとしても、それはやはり、資本の要請によるものだ。もはや、善悪から遠く離れたところで、それはそういうものでしかない。

二十世紀の終わりに、IDÉEが『Homeless』という展覧会をやったのを忘れてはいないはずだ。農耕民と狩猟採集民のメタファもあった。定住よりも、漂流のほうがかっこいいと、誰かがプレゼンテーションしていた。俺たちもそのプレゼンテーションに乗った。どちらにせよ、俺たちには選択肢などなかった。資本を持たない禁治産者がどうやってなにを所有できたというんだ?

実際に、「誰か」が悪意を持ってそれを行ったと言っているわけじゃない。だけど、擬人化された資本は、(すくなくとも遡及的に)貧しかった俺たちからなにかをかすめとった。俺が話しているのはかすめとられたなにかのことだ。

とはいえ、誤解しないでほしい。サンタマに庭付きの一戸建てを買って、庭に陶器の七人の小人を並べて、週末はホームパーティを催すことが、正しい所有のやりくちだと主張するつもりはない。そんなのは単に、戦争に負けた後遺症でしかない。

重要なのはかすめとられたなにかのことだ。