太陽の塔』(asin:410464501X)読了。あわせて、『モテモテ王国』を読み直した。これに滝本竜彦を加えれば、非モテ的九〇年代を総括するのにまったく充分だ。しかし、だ。実際のところ、九〇年代はまだ良かった。俺たちは、本当の本当に、心の底から、ノストラダムスの予言が成就することを望み、そうすることで、どうにかこうにか九〇年代をやりすごすことができた。だけど、二十一世紀はやってきて、ビルが飛行機につっこんだところで世界はなにも変わらず、モテないやつはモテないままで、年収三百万円時代がのしのしやってきて、絶望することにも厭きた仔供たちが街をうろつきまわってる。俺たちがサバイヴしなきゃなんないのは、そんな世界だ。

そんな世界について、これ以上、俺はなにを語ることができるだろう。金を稼ぐ方法か? ステディを作るための方法か? この国から逃げ出す方法か? そのどれも、結局は同じ結論に行き着くだけだ。判ってるだろう。ウェブページなんか見るのも作るのもやめろ。仕事しろ。勉強しろ。女を口説け。資産を作れ。資産を運用しろ。リスクを計算しろ。リスクをヘッジしろ。それだけだ。

この唯一のシステム、資本主義の系のうえで踊れ。負けたら、「自殺」しろ。爆弾頭。それだけが戦略的に「やつら」を出し抜く手だ。そんな話でもしようか。その前に、いつかの文章をリフレインだぜ。

階級闘争の話をしよう。誤解されないように断っておくけど、私は未来永劫絶対にアカじゃないし、戦闘的日和見主義者の誇りにかけてあらゆる党派に敵対する。オーケィ、ジョニィ、じゃあ、まず、闘争の様相、モテ対非モテなる様相の明白さを示すことから始めよう。

貧乏が悪いんだ、と三度繰り返してもらいたい。ボクたちがモテないのは、貧乏のせいだと得心できただろうか。できなかったのであれば、もう三度繰り返してもらいたい。貧乏が悪いんだ、貧乏が悪いんだ、貧乏が悪いんだ、と。

なんだって、ジョニィ、まだ納得できないって? ぱちぱちぱち、おめでとう、ジョニィ、君は今、二十一世紀に立っている。そう、ボクたちがモテないのは貧乏だからではないんだ。それは単に権力のプロパガンダに過ぎない。権力はそうやって、非モテという階級を作り出してきた。その物語に踊らされてちゃダメなんだ。


権力が、貧乏というプロパガンダでもって覆い隠そうとしたものは、じゃあ、いったいなんだったのか。と問う前に、いやさ、そもそも権力とは、いったいなんだったのか。科学は答えた(科学という単語さえも、いまや過去形であることに注意しよう)、権力は悪であり、権力は暴力である。

だから、逆説的に科学的に、以下のごとく述べられなければならない。悪の秘密結社 MMK既得権益(すなわち、モテだ!)を守るために行使する暴力が、権力にほかならない、と。

さて、ジョニィ、もちろん、このような明解な権力を信じた者達が、明解でない権力に敗れていった時代が二十世紀だった。けれども、ボクたちは、明確な悪意をもって、明解な権力の実在を語らなければならない。(いうまでもなく幻想としての)階級闘争をアジテートするための戦術として。


ボクたちの階級闘争が彼らの階級闘争と不可逆的に異っていた点、それは、階級間の移動を徹底的に拒否する点にある。だって、カトウさんは田舎者以外の何者にもなれないし、ボクたち(MNO)はボクたち(MNO)以外の何者にもなれないのだから。

けれども、だから、権力はあたりのよろしい言葉で、ボクたちの階級闘争を彼らの階級闘争にすりかえなければならなかった。完全な絶望は、畢竟、権力を弱体化してしまうから、彼らは階級闘争の幻想でもって、ボクたちにはかない希望を抱かせ続けたかったわけだ。

だから、ボクたちは、幻想の階級闘争でもって、これに徹底抗戦しなければならない。


にもかかわらず、反動勢力は、かかる虚言を弄するだろう──「クリスマスを独りで過ごす者を社会不適応者と断じる世間が間違っている」と。今こそ、ジョニィ、ともに叫ぼう。「おまえが間違っている。おまえが反革命だ」と。白色テロルに迎合できない者たちは、徹頭徹尾徹底的に社会不適応者でなければならない。なにしろ、シホンシュギ国の市場がかくあれ、と定めたのだから。


今は昔(ボクたちがリスペクトする、そう、ショーワって時代の話だよ)、オタクっていう便利な言葉があったんだってさ。オタクはサベツされ、サベツされた。彼らが市場のメインストリームから遊離したところで、形式としての消費を洗練したから。信じられないかもしれないけど、ジョニィ、そのころにはまだ、メインストリームが存在するかもしれないって夢想しちゃえる人々が生き残ってたんだ。

やがて、ようやく八〇年代が終焉し、オタクは拡散した。たとえば、モーオタなんてレッテルは、理の当然、どんなディスティンクションも生み出さない (もちろん、その空虚さこそを見るべきなのだけれど) 。二重の意味を有する言葉を流通させてしまったがために、あの時代の権力は、あの時代に敗北していった。(と、これはそう、歴史、の話だ)

ここにいたって、ボクたちは、モテと非モテは完全に定量的であるという真実を思いおこさなければならない。貨幣以外の手段で権力関係を計量する、それは、ただひとつの手段であるという、絶望を。


いいところに来た、ジョニィ、この箱のなかに入ってほしいんだ。このビンは何かって? 決まってるじゃないか、(確率的に、たぶん)青酸カリだよ。モテと非モテは完全に定量的だって説明したじゃないか。科学(かぎかっこつきだけどね!)者たるもの、実験で検証しなくちゃ。どうしてもいや? もう、しょうがないなあ、のび太くんは。はい、はんようねこがたけっせんへいき〜

さて、ジョニィ、箱のなかの猫は、モテだろうか、非モテだろうか。箱のなかには、あらゆる他者が存在しないから(猫の sexual orientation によらず)あらゆる権力関係が存在できない(まあ、青酸カリは権力そのものだと言えなくはないけど)。だから、箱のなかの猫は(生死に関わらず)決定論的に非モテでなければならない。

この恐るべき(誤った)結論は、ひどく困った事態を引きおこす。一九五七年、ブリンストン大学のヒュー・エベレット博士は蓋然性世界について言及した。以来ずっと(本当にずっと、気が遠くなるくらいずっと、ずっと)、胸に抱きしめつづけた希望を、ここではないどこかに到りつけば、もしかして、ボクたちだってモテになれるかもしれないと、かろうじて保ちつづけてきた希望を、徹底的に打ち砕いてしまうのだ。

充分絶望できたなら、ジョニィ、そろそろ箱を開けることにしようか。


うん、ジョニィ、(予想はついてただろうけど)箱には希望が入っている。箱を開ける前に、おさらい(という名前のアジテーション)をしておこう。

ボクたちは非モテで、非モテはモテでなく、モテになれず、モテを夢見ることさえ許されない。この世界は、ボクたちの基本的人権を(それはたった一個のチロルチョコであがなわれるにもかかわらず)認めない。だから、ボクたちは繰り返さねばならない、非モテ系の「系」は、まさしく「システム」だったのだと。やがて、あの時代が有する二重性に敗北したあの時代の権力が、(今度こそ本当の)二重性を有する権力として二十一世紀に立ちあらわれるだろう。非モテ階級の唯一の身代であるところの絶望を収奪せんと企みながら。

ところで、ジョニィ、本当の本当に箱を開けたいのかい? うん、そうだよ、それが、本物の階級闘争ってやつなんだもの。


MMKとは?

二十世紀最後の三月、私は新歓の勝負服特集というのを立ち読みした。標的の歳上・同年代・歳下に合わせて、さまざまなあれがあれこれだった。あぁ、カトウさんはこういうあれこれを望んで田舎から出てきたのだなあと、すこしだけ感慨深かった。

感慨は、しかし、吹き飛ばされるものだ。特集された勝負服をまとうことにより、貴女も MMK である、とその女性雑誌(もっとはっきり言やあ『JJ』だったんだけど)は主張していた。よりによって、MMK である。そのまがまがしい(反革命の)響きに、編者は心を痛めなかったのか。(そりゃあ、痛めなかったに違いないけど)

もちろん、古き良き八〇年代を生きたボクたちは、MMK が「もてて・もてて・こまる」の略であることくらい知っている (だって、ぬまじりよしみのマンガに出てたもん) 。けれども、それを許すほどに年取ってはいなかったし、なにより、ボクたちの旗には MNO の文字が燦然と輝いていたのだから。

MNO とは?

神聖モテモテ王国』は、言うまでもなく、非モテ対モテの階級闘争理論に関するもっとも優れた書物のひとつである。