正しく敗北するということについて。結局、ニッポンのお父さんたちが正しく敗北できなかった。一九四五年に、一九七〇年に、お父さんたちは敗北の感覚を我が物とすることさえできず、その後の長い年月を、だらだらと「戦争体験」を語ることに費やしてきた。それはきっと、どうしようもないくそったれな事実だ。

問題は、矢作俊彦がどうなのか、ということだ。ぼくは、彼が敗北を認識している数少ない作家のひとりであると思う。ひとつの(ウェッブでアクセス可能な)傍証は、日本版 HotWired のインタビューだろう。

二〇〇一年九月一一日以前だということはさっぴいても(おっさん、あれでだいぶんショックを受けたらしいから)、かなり能天気だ。すくなくとも、今が昔より悪いなんて言ってはいない(昔から、自分は進歩主義者だなんだとエッセイでうそぶいてはいるし)。敗北についても、明治維新を総括しちゃってる。もう阿呆だとしか言いようがない。

『ららら科學の子』ではどうかと言うと、なんていうか、危ういのは確かだ。矢作俊彦が危ういというよりも、主人公の言動が限界をほとんど突破してしまっている(そういえば、『スズキさん』もそうだった)。

「主義が間違っていたとしても、主張は間違っていなかった」
矢作俊彦『ららら科學の子』361頁)

「彼女に礼を言っといてくれ。それから、こう伝えてくれよ。この間のことだけど、戦う相手も方法もそう的外れじゃなかったって。間違いは、戦う理由だ」
矢作俊彦『ららら科學の子』469頁)

物語としては、まわりの奴らはそんな話、聞きゃしないわけで、ぼくはそのことにすこし安心する。ただ、もちろん、読むひとによっては、閾値を越えてしまうだろうな、と思う。