「全部が好き」と告げることと、「きみのふっくらした唇がかじりつきたくなるくらい好き」と告げるのとどっちが適応的な行動だろう? と、その前にエクスキューズ、再三申し上げるけれど、これはパロディで、こんな言葉の群れを信じてもらっては困る。それなりに誠実に話してはいるけれど。

まずは、「好きって気持ち」がいっぱいのケースについて。恋愛のいくらかは、好きなものは好きだからしょうがない、と開きなおるしかないもので、説明なんかできゃしないわけ(これを純愛と呼ぶわけ、うふん)。この気持ちをどうすればいいかというと「好き」って叫んじゃえばよくて、幸福にもそれが相手に届いたなら、次は関係を存続させる努力をするかしないかになる(もちろん、本当はその前から力学は既に存在してるんだけど)。ここでの最適解は、自分が裏切る自由を確保したまま、相手が裏切らないように誘導することだ(ああもう、ロマンスが足りないね)。そのためには、自分が裏切らないことを相手にプレゼンテーションする必要があって、そのためには具体的な根拠を相手に示す必要がある。これをソフィスティケイトされた言い方で述べると、「プライベートなものと、社会の公共性との共存」ってことになるんだろう。

なんちゃって、こんなの全部、口から出まかせで、個別の点をほめるほうが楽だからなのさ。と、「好きって気持ち」があんまりいっぱいじゃないケースについて(ロマンスなんか、もう、全然なし)。あなたの全部が好きって言葉がどうしたって嘘になっちゃうときもある(しょうがないよね、別に面喰いじゃなくたって、顔の好みはあったりするし)。そんなとき、ぎりぎりのところで嘘を吐かないために、ボクたちは唇や爪をほめる。どこだっていいけど、そのコの努力が反映されているところをほめる。どういじったってどうにもなんないところには触らない。

なんてことを、シャドウパワープレイを練習中の同居人とくっちゃべる真夜中。パワープレイと言ったって、電源不要なあれじゃなくて、ほら、ある種のネゴシエーションのスタイルのこと。経済の話とはなんだか関係がないけれど、この話はこれで終わり。あらあらかしこ。