同志たちへ。最近の非モテおるぐのトレンドは、局所的な適応とグローバリズムだそうです。お暇でしたら、いっしょに「運動」でもしましょう! と、トラックバック

恋愛市場における貨幣の問題は解決していないのだが、それとは別に、地域通貨パースペクティブとして導入しようとしたことがある。たとえば、

地域通貨が、身体性によってグローバリズムから、「生活」を防衛するためのシステムであると定義する。身体性は、ここでは、人間と人間が顔を合わせてコミュニケーション可能なくらい、充分に近い距離のことだとしよう。これに対して、恋愛市場は、セックスという目的(目的のすべてではないけれど)のために、地域的な市場でなければならなかった(いちおう過去形)。どっちも貨幣に似たものを使ってるし、ローカルだし、おんなじだよね。

これに対して、友人は「じゃあ、恋愛市場とグローバリズムはどんなふうに関係すんの? ああ、それがかぎかっこつきの娼婦ってわけ」と意見をくれた。

かぎかっこつきの娼婦、は、資本を擬人化した存在としての資本家と、ほぼ等価なんじゃないだろうか。このとき(グローバル資本とローカル資本が存在するように)、ボクたちはグローバル「娼婦」とローカル「娼婦」の存在を仮定しなければならないのではないかと思う。

グローバル「娼婦」とは、「ドルで購入可能なセックス」をサーヴィスするための資本=身体のことを意味する。既に、「ドル」すらも比喩としてしか現れえないのだけれど、比喩としての「ドル」と交換可能な「娼婦」の身体が価値であることを保証するグローバルなシステムはいったいなんだったんだろう?

(こんなことを口に出したくはないのだが)「マスメディアが規定した性欲」だったんだろうと思う。マスメディアは、(どこかは判らないけれど)情報を発信する中心を仮定するから、存在自体がグローバルだった。これらのメディアが規定する性欲を持つ身体がグローバル「娼婦」だった。けれども、それはかくあれかしと(彼ら彼女らが)望んだ姿であり、そのような身体を持つことはできない(よほど幸運でなければ、たとえば東京でトウキョウっぽいライフを生きることはできないでしょ)。できないから、彼ら彼女らは、ローカル「娼婦」になった。それが、カトウさんが目指したものと、実際のカトウさんの差だった。