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「敵」という言葉について、思い出したように、沢木耕太郎を読む。かつて古本屋で買いあさった単行本はもう手元にはなく、しかたがないので、文藝春秋から出ている『沢木耕太郎ノンフィクション』を買い集めている。最新刊『かつて白い海で戦った』には、カシアス内藤に関する物語が収められている。初出は七三年、八〇年、八一年で、そのことを確認した私は、まずそこで溜息をつかなければならなかった。
そして、もういちど、溜息をつこうとして、私はそれが唇から漏れていかないように、口を真一文字に結んだ。『かつて白い海で戦った』は、『一瞬の夏』という長い物語を挟むように、『クレイになれなかった男』と『リア』が配置されている。
『クレイになれなかった男』は、このように終わる。
望みつづけ、望みつづけ、しかし「いつか」はやってこない。内藤にも、あいつにも、あいつにも、そしてこの俺にも。
「いつか」は、矢吹丈のように燃えつきることのできる「いつか」だった。そして、それを手に入れられなかった男たちが集い、『一瞬の夏』は始まる。
『一瞬の夏』の終わり、沢木耕太郎はこのように告げる。
「かわいそうに」
(中略)
「そんなことはない」
「そうかな……」
「そうさ。とにかく彼は戦ったんだ」
「でも……」
「とにかく眼の前に敵はいたんだ。かわいそうなんてことはない」
「いつか」を手に入れるために、男たちは集い、そして、カシアス内藤は敗れる。沢木耕太郎は、韓国に行って、試合のマッチメイクまでする。
私がつこうとした溜息は、「敵」を手に入れ、「いつか」を手に入れるために、ここまでのことをしなければならないのか、という溜息だった。あの七〇年が(六八年だろうがなんだろうが構わないが)終わり、バリケードのなかで『少年マガジン』を読むことでなにかをごまかせなくなった世界で、闘うことがこんなにも面倒なことなのか、という溜息だった。
しかし、と、思いながら、私は漏れていこうとする溜息をおしとどめた。