ばらばらの言葉。

  • 「ポップな時代」が、「明るくて楽しい時間をすごしてると思」うことができた時代だったとしたら、いつものようにそれは、個人的な感覚のなかに収斂されていくのではないか。あたかも、俺が滝本竜彦の同時代性と呼んだもののように。
  • ディケイドなんて単位ではなく、ショーワを用いるべきであるという指摘がある(矢作俊彦がフランス人と、ゴダールについてうだうだ話す文章のなかに出てくる)。終わらない昭和を生きた「ぼくたち」にとって、言うまでもなく、一九九九年は昭和七四年である(終わらない昭和というコンセプトは、もちろん、大塚英志の小説からの引用だ)。
  • 「ポップな時代」は幾重にも折り重なっているような感覚がある。バブルで景気が良かった頃。それから、昭和七〇年まで。昭和七〇年から世紀末まで。そして、二十一世紀。どこまでが「ポップ」であると言えるのだろう。
  • そして、言いあらわすことができるとしたら、それはいったいなぜ?