ぼくは教科書に隠した文庫本を読みながら、神父様の話を聞いていた。ペルーでもっとも有名な家のひとつに生まれ、大学で数学を修め、神学校に行って神父になったそのひとは、ぼくの通っていた高校で技術の教師をしていた。神父様は、自由さについて話をしていた。

ぼくは小説を読む手を止め、我が親族におけるカトリックプロテスタントの対立について思った。母はなにかを犠牲にするからこそ、カトリックが信じるに値するとした。叔母はなにかを犠牲にしないからこそ、プロテスタントが信じるに値するとした。それはつまり、カトリックの神父が妻帯を禁じられていることについて論じていた。牧師にも結婚していない人もいるというぼくの言葉で、論争は一応の決着を見た。どちらにせよ、そのふたつの対立が簡単にどうにかなるなんて、幼かったぼくにもよく判っていた。

神父様の話は続いていた。「人は、もたない者のこともまた、うらやむものだ」と、告げた。あれを捨て、これを捨て、両手に余るものを持たず、神様と正面対峙することを択んだというその事実は尊敬に値する。しかし、うらやむとは、いったいどういうことだろう。ぼくは顔をあげて、神父様の顔を見た。俗世から離れて神に人生を捧げることができるなんて羨ましいと、同郷の友人たちに告げられたのだという。「自由さ、とはいったいなんでしょうか?」と、神父様は問うた。ぼくは教室の前の壁にかけられた時計を見やり、授業の残り時間にうんざりして、またレフ・ニコライビッチの小説を読みはじめた。