片岡吉乃をぱらぱらとめくりながら、何度でも、ここから語り始めようと強く思う。ぼくの指がめくっているのは『しじみちゃんファイト一発』(asin:4088475119)で、三つの短編からなる物語の二編が収められている。(しじみちゃんの「レベル3」って、まだ、デラマに載ったりとかしてないよね? 教えてえらいひと〜)

ぼくたちは、しばしば非モテとはなにかについて議論する。ぼくたちの現在の理論では、すくなくとも三種類の非モテが存在する。状態としての非モテ、能力(の欠如)としての非モテ、意志としての非モテ、だ。しばしば意図的に、ぼくはこれらのすべてを混同してアジテーションする。その卑怯さについては、謝罪しておこうと思う。だからといって、やめるわけじゃないけどね。

状態としての非モテは、外部の観察者によって決定される。友達が少なかったり、恋人がいなかったりすると、客観的な視点とか世間の眼ってやつが勝手に規定してくれる。けれども、外の人なんてどこにもいないから、状態としての非モテについて論じることには、実はあんまり意味がない。

能力(の欠如)としての非モテは、非モテ思想に対する反論で槍玉にあげられるものだ。異性と仲良くなるための能力が不足しているなら、ぐだぐだ抜かさずに努力すればいいじゃない。努力するのがいやなやつに、市場はなんの見返りも与えないぜ。ってやつ。当初(あるいは今でも)、イデオロギー闘争はこの次元で闘われていたように思う。ぼくたちは、そのためにドキュン対厨房という対立軸について論じ、あるいは恋愛市場における架空の経済学を整備していった。

意志としての非モテは、闘争のなかで確立されていった概念で、ぼくたちの非モテ思想の中核をなしている。オーケィ、努力すればモテることはよく判っている。だけど、なぜ、努力を強制されなければならないんだ。確たる意志をもって非モテを選択する、そして、努力しないという自由を求めてもいいだろう。もちろん反論はあった。好きにすれば、だけど、だったら、モテたいとか言うなよ。これに対する完全な答えは、まだ出ていない。考えられる答えのひとつは「能力(の欠如)としての非モテ」の段落で述べた闘争と同次元での返答であり、もうひとつは同調圧力がぼくたちのルサンチマンの根源で、つまりはシステムが悪いんだという返答だ。(男のコの不自由さ、あるいは、女のコの不自由さという言葉でぼくが表そうとしたものも、こういうことだったのかもしれない)

片岡吉乃にたちもどろう。『しじみちゃんファイト一発』の一作めは、「沼田しじみ」(カラコンいれてウィッグつけるとロリータエッチな感じに変身するけど普段は小汚い女子高生)が、家族にモテないことをいじめられ(「やだ あんたまだ 彼氏の一人もいないの/おっかしいわねえ あなたホントに私の子?」)、ほっぺにごはんつぶをつけながら「モテてみたい……」と心のなかでつぶやき、いろいろがんばってみるけどうまくいかなくて、友達のえりくびをつかんで「素のまんまじゃだれも好きになってくれないじゃん」と叫び、最後には「ヤメたアホらし」「恋も/したくわけじゃないけど/それはまあ/そのときがきたら/ということで/いいやね」とモノローグするという少女マンガだ。これだけだと少女マンガにならないので、ちょっと期待しちゃうかも、みたいなシーンもなくはないんだけど、まあ、それはそれ。半分くらいギャグマンガだし。それよりも、この物語が、状態・能力・意志という三種類の非モテを順々にめぐる革命精神あふれる作品だってところが重要。すべての非モテ活動家よ、(ながいけんの『神聖モテモテ王国』といっしょに)必読せよ。なんてね。