しばしば、このような問いのなかに身を置く必要がある。すなわち、良いものが売れるのか、売れたものが良いのか。こんなのどうしたって信仰の話で、なるべく関わらないようにするのが健やかに生きるコツであると判ってはいる。だが、まきこまれてしまったら仕方ない。というか、「ものをつくる」という作業は、しばしばこの対立を止揚するための「運動」なのだ。

さて、話をぐぐっと卑近にしよう。「かっこよさ」について(そう、実はこの話、昨日から続いている)。ある種の絶望のなかで俺たちが選択したドグマは「価格の高いものはかっこいい」だった。これはこれで、ある種の真実を含んではいたが、しかし、役に立たなかった。なぜなら、俺たちは貧乏だった。つまり、頭のテッペンから靴のツマサキまで足しあわせて、せいぜい十万行くか行かないかくらいの格好しかしてなかった。せめて、その十倍くらいの予算があれば、どうやらかっこよくなれるらしいということは判ったけれど、ないソデはふれなかった。だから、俺たちは金持ちになることを誓った。それはグローバル経済への信仰、つまり、貨幣をなりたたせている信用ってやつの姉妹を原資としていた(なんのこっちゃ)。だけど、このスタイルだって楽じゃあないんだぜ。